村の歴史

龍口について

(1)大和龍口について

何故「大和龍口」と言うのでしょうか?

時は8世紀前半、東大寺の大仏殿が創建された時にまで遡ります。
聖武天皇の勅諭によって日本の宗教は、つまり国教は仏教と宣旨され、国中に仏教が広まってきました。

その象徴として、天皇家の菩提寺として建立されたのが現存する東大寺です。
と、同時に、天皇家を支えていた藤原氏も自分たちの菩提寺として創建したのが興福寺です。

現在、阿修羅像が注目を浴びている興福寺ですが、この時代、繁栄していた藤原氏の菩提寺として、東大寺同様、学僧も僧兵もおり、強大な勢力を持っていました。
その強大な勢力を支えるために必要だったのが食物や、光熱(エネルギーの源泉)である薪や柴でした。
その薪や柴は興福寺の所領であり、かつ東大寺からも近かった現在の“若草山”から調達していました。
しかし、その自然林の材木をすべて伐採してしまい、生えてきたものも両者取り合うようになりました。

結局そこにはもう樹木を生やさない、誰のものでもないとすることによって安定を保ったのです。
しかし、そうはいっても燃料である薪、柴の重要性は変わらないわけです。
そんな中、薪、柴、地の杉や檜、槙、楠という木々が原生林として残っていた「三重県曽爾村」から「現在の室生寺の辺り」までが、若草山の代わりの地となって、東大寺や興福寺の燃料の源泉となっていったのです。



しかし、当然のことながら若草山で起こったことがここでも起こります。
「曽爾村から室生」にかけて、薪、柴、良材の争奪戦が起こり、東大寺や興福寺の伽藍が建立された時から、東大寺直轄の所領山林と、藤原氏の所有とで、また揉めたのです。
しかし、今回は天皇家の仲立ちによって“龍口の山を二分割する”という決断が下されます。

その二分割することによって、より大和の都に近い方を“大和龍口”、より伊賀に近い方を“伊賀龍口”として、興福寺の所領を“大和龍口”、東大寺の所領を“伊賀龍口”としたのです。




分割線として白山という、白山信仰の山という意味と、城があった城山という、2つの意味を持つ山、白山に東西の分割線を引いて、西側を“大和龍口”、東側を“伊賀龍口”としました。
全国を調べても小さな村が県をまたがって分割されているのはここだけです。

現在では、興福寺のスポンサーであった藤原氏の滅亡によって、基本的には大和龍口と興福寺に対してのつながりはなくなりました。
しかし、東大寺は天皇家の菩提寺として現在も存立しているので、伊賀龍口から薪を奉献していた由来を残すためにも、伊賀龍口から薪を献上する儀式と風習がいまだに残っています。
伊賀龍口近くの極楽寺から良質の木や薪を持って東大寺のお水取りに向かうのは、それが所以であります。

はたして正式な歴史の文献に出てくるまででも、それくらい古くから由来がある龍口なのです。


(2)上忍の里、龍口

龍口は忍者の里と言われています。
百地清正邸の近くにかかっている橋は忍者橋と呼ばれています。



もし、改めて龍口にキャッチコピーを付けるとするならば、“龍口は上忍の里”と呼ぶのがふさわしいでしょう。
以下、その理由を書き記します。


忍者には上・中・下の階層があり、下忍とは一般に知られる黒装束に身を固めて夜を暗躍し諜報、調略活動に勤しむ人たちであり、その下忍の頭目を中忍と呼んでいました。
その中忍と下忍たちを束ねるトップの参謀を上忍と呼びました。
服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)、百地丹波(ももちたんば)、藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)の3人は伊賀の三上忍と呼ばれていました。
そのうちの百地丹波が龍口に住んでいた事は周知の事実です。
その百地丹波が大和龍口を拠点に、伊賀龍口にも別邸を持ち、それがトンネルで結ばれていたのです。
そのため、大和に百地丹波、伊賀に藤林長門守がいるとしながらも、実は藤林は架空の人物で、百地が一人二役をしていたという説も残っています。


(3)百地家のルーツ

では、何故、百地家が龍口に入ってきたのでしょうか?
又、そもそも忍者とは何でしょうか?






下級の忍者たちは賃金を払ってくれる武家の元で諜報・調略活動するものです。
しかし、中忍、上忍において彼らの本来の目的を述べます。

時は1333年、後醍醐天皇、建武の新政のころまで遡ります。
後醍醐天皇が建武の新政をした後、建武政権の瓦解によって、京都を脱出して吉野へ逃れ、南朝(吉野朝廷)を開きます。
その南朝の天皇(三種の神器を持つ人たち)を、一部の公家たちや元々天皇を守護していた人たちが姿、形、名前を変えて守護、護衛をしていました。

その筆頭が公家側では三条家であり、百地家でした。
百地家のルーツを辿ると、丹波の方に住んでいた清和天皇の直結の流れを汲んでいて、百地の名前の「百」は数字の100の意味でもありますが、代々、永遠にという意味も表しています。
清和天皇から分流し、その後「大江姓」を賜り、名張(隠)黒田の庄に先ず住み、龍口に入村する時「百地姓」と改姓したのです。

果物の“桃”は永遠と理想郷を表す果実で、卑弥呼の時代まで遡って、天皇家で使われていた儀式で一番重要なものが山桃であったことが、最近桜井の纏向遺跡から発掘されて、その正当性が証明されています。


(4)楠木流忍術

その天皇家の流れを汲んでいる公家たちや御家人は、特殊な技術を持って天皇を守護していました。
つまり、「少人数でミカドを護る」という技術です。

後醍醐天皇がつくった南朝を支えていたのは楠木正成という河内の土豪でした。
そして少人数で天皇を守護していたのです。
その師匠が龍口から一番近い三重県伊賀の所領である黒田の庄の出身で、大江時親(別名、毛利時親)と言い、毛利家の始祖となった公家系武将です。
その弟子であった楠木正成は天皇家に仕えて、赤坂城の戦いで足利尊氏の十万の兵をたった500人で討ったのは、あまりにも有名な話です。
その時から彼らが心棒し、信仰の基軸としていたのが、仏教の中の「真言密教」です。

特にその中の「孔雀明王経法」という経典に従って精神統一、精神鍛錬を行い、具体的な兵法としては中国「孫子」の兵法“用間(ようかん)”技術を持って諜報活動に勤しんでいました。
少数の人間でも大事なアイデンティティや天皇を護るために特別な技術として発展したのが忍術の基礎である「楠木流忍術」なのです。
その楠木流忍術というのが発展していって、服部半蔵や百地丹波、藤林長門に受け継がれ、江戸時代まで継っていくのです。

余談ですが、テレビの時代劇などでよく見る“隠密”は、百地丹波が織田信長と戦った「天正伊賀の乱」の際に、陰に隠れて徳川側のために活動したところからつくられたものです。

楠木流忍術というのが原点となって、現在まで一般に知られている忍術となりましたが、その頭目が百地丹波(百地三太夫)なのです。



龍口を拠点として、全国に、用間(諜報活動)をする間者(かんじゃ)たちが散らばりました。
この時代「農民」は国越えが簡単に出来ない時代でしたので、間者たちの、そのほとんどが“芸人”“売り子”などの商売を持ち、怪しまれずに全国を渡り歩いていました。

楠木正成の妹の子孫たち「観阿弥世阿弥」が始めた能楽などをはじめ、大道芸、猿楽、演武、楽曲、薬り売りなどをして集めた全国の情報が大和龍口に集まっていったのです。
今や有名となったアメリカのNSAやCIAみたいなものですね。


(5)上忍といち早く通じていた徳川家康

天皇家をちゃんと護りながらもいわゆる政治の実権を握ろうとしたのが徳川家康です。
家康はいち早く龍口の伊賀の人たちと連絡を取っていました。
本能寺の変に際し、徳川家康が明智光秀の軍や混乱に乗じた落武者狩りなどとの遭遇を回避するため伊賀の険しい山越えをして帰還した「神君伊賀越え」の際には、龍口の者たちが道案内をした、と言われています。



織田信長は、日本を制覇するためには外国からキリスト教を入れる代わりに莫大な富と武器を調達して、天皇を害し奉って自分が新国王になることと考えていたという話は数々の文献で見受けられます。

天皇家にとって一番の敵は織田信長でありました。

徳川家康は百地丹波の詳しい情報から、いち早く織田信長の動きを察知しました。
天皇家が安定して日本を統治するには、上位権限は天皇家にあるが実質の権限は幕府に在る「上下公武共闘統治・政治」という構想が、家康と、その参謀である天海大僧正によって考えられました。

いまでこそ、明智光秀が個人の恨み辛みで織田信長を殺したとなっていますが、明智光秀の出自自体が天皇家の隠密であったことから、天皇や公家の代わりに織田信長を討ったのでしょう。


(6)義賊のスーパーレンジャー石川五右衛門

歌舞伎の市川海老蔵が自ら発案して演ずる新作歌舞伎「石川五右衛門」が話題になっています。

何故一介の盗賊である石川五右衛門がこれほどヒーローとして登場し、釜茹でにもなり、名を残しているのかというと、これにも理由があります。

織田信長の流れを汲んでいる豊臣秀吉が天下をとった場合に、天皇家の存在が不安定になる可能性があったので、秀吉が天下を取る寸前に暗殺する計画がありました。
その背後にいたのが徳川家康です。

ちゃんとした幕藩体制とか、長きにわたっての天皇家と武士による政権(上下公武共闘統治・政治)をつくるにあたって、天皇を害し奉る可能性のある豊臣秀吉は織田信長同様危険人物だったわけです。
徳川家康と天皇家の密約によって、百地丹波のところで一人のスーパーレンジャーが生まれました。

それが石川五右衛門です。



石川五右衛門はカラダも大きく、頭の回転も早く、足も速く、レンジャー部隊のエースとして育っていきました。
そして、秀吉暗殺という密命を受けることになりました。

しかし、石川五右衛門が百地家のところの出自であるとみんなが知っていたため、暗殺が失敗に終わった場合、大和龍口がお取り潰しになる可能性がありました。
そのため百地丹波との縁を断つストーリー作りの必要性があったのです。

そこで、作り上げたのが、百地丹波が石川五右衛門を忍者として破門する、というストーリーです。
(※「おかんの井戸」という物語で、百地丹波の愛妾である「おかん」と情を通じた石川五右衛門は師匠の逆鱗に触れるのを恐れて、おかんを井戸に落として殺した、という話が、でっち上げられました。)

愛憎関係のもつれで破門され、石川五右衛門は龍口を出ざるを得なくなって、盗賊になったという話です。
しかし、その後の石川五右衛門はまさに荒唐無稽です。

いちいち、派手な衣装を着て、長刀を持って髪の毛をあげ、モミアゲもつくり、高下駄履くなど。
元忍者がそんな目立つ格好をするはずがない。

あえてそうしたのは、「義賊」に成り切るためであったのではないかと思われます。
「義賊」とは、一般庶民の味方で、義侠心がある盗賊のことで、日本で実在する義賊は、この石川五右衛門と鼠小僧次郎吉がいます。
つまり、彼らがしたのは、単なる盗賊行為ではなく、不正行為をして溜めたお金があるところや飢饉のときに金持ちになった米屋など、人の不幸に付け込んで富を増やしたところにあえて盗賊として入っていきます。

盗みに入った翌日にはそこから盗み取ったであろう金銭や米などが貧しい人たちの元に届けられる。
そして盗賊に入った2、3日後にあえて、派手で大きな姿を見せつけ、詳らかに自分の正体を見せた、・・・という事実づくりをしたのです。


「世間の人たちを味方につけていく行為」、盗賊ではあるけど民衆の味方、京都で有名な大悪党だが、義賊である石川五右衛門、というイメージを完全に作り上げ、忍者であったという過去を分断したのです。
しかし、五右衛門一人で盗賊など出来るはずはない。

忍者一団で盗んだものを一団で配ったが、表向きには石川五右衛門の仕業にしたのです。
特に京都の人たちは、織田信長や、豊臣秀吉に対しては、出自が不確かであるということを理由にリスペクトしていなかったので、特に百姓上がりの秀吉に対して反感を持っていた人たちをも味方につけることが出来たのです。
結果大阪城城内まで忍び込むことが出来ましたが、時を告げる香炉が鳴って捕えられ、暗殺を完遂することが出来なかったのです。

ですが考えてもみて下さい。
一盗賊が豊臣秀吉を暗殺する必然性は全くないでしょう。
そのあたりの背景に興味がありましたら、市川海老蔵さんが石川五右衛門を演じていますので、その歌舞伎を必ず見てほしいです。
その芝居には「龍口」という名前が登場しますので・・。

そしてその事実(暗殺計画の背後に徳川家康がいること)を知っていた豊臣秀吉はあえて、意趣返しとして、石川五右衛門を窯の油で揚げて(家康の好物であった)天ぷらにしたと、言われています。



しかしその頃は徳川家康の勢力は強大になりつつ、武士たちに人望もあったので、秀吉もそれ以上因縁をつけることが出来ず、天ぷらにするのが精いっぱいであったのです。
・・・・というような龍口を取り巻く数々のエピソードが現代まで残っています。
つまり、“龍口”は、徳川家や天皇家から勅命を受け、諜報活動をする上忍の里だったのです。


(7)龍口が上忍の里になるまでの経緯

でも何故、楠木正成の技術(孫子兵法の“用間(ようかん)”技術“)を持った人たちが龍口に入ってきて、そこに住みついたのでしょうか?

ちなみに江戸時代の文献には120件くらいの戸数と300人ほどの忍者が住んでいたと記載されており、当時の生業は半農半民という形であったと思われます。
さらに文献を遡ると、東大寺や白山神社の文書には“隅田”、“下住”、という人々の名前が見受けられますが、何故忍者が住むようになったのか、なぜ龍口が選ばれたのか、疑問が残ります。

それを遡るためには今度は遥か古代の記紀以前の日本の黎明期まで遡らないとなりません。
龍口の集落の南奥に栃蔵(トチグラ)というところがあります。
私は、栃村(トチムラ)と思っていましたが、よく発音を聞いてみると栃蔵であることが解りました。

“栃”というのがどの時代に頻繁に使われて(食べられていた)かというと、農耕が始まる前の狩猟採集民族(縄文人)だったころに遡ることができます。
栃というものは貨幣の代わりに使われていたとも言われており、また、栃の実は水銀に漬けると赤く変色して、古代王族の首輪として珍重されたとも言われており、その栃の実を蔵に集めていたということは、豊かであったと容易に推測することが出来ます。
しかし、その力の源泉はどこにあったのでしょうか?

「曽爾村から室生にかけての一帯」が良い原生林であったわけですが、その西の果ての地名に“血原”と呼ばれるところがあります。
“血原”とは戦争があって人の血が流れて赤くなったということではなく、簡単に言うと辰砂(しんしゃ)、水銀です。

辰砂が地中から湧出した時に、原っぱが赤く変色して染まったことからそう呼ばれています。
この周辺は、室生赤目火山帯であって、鉱物の豊富なところです。
現在でも企業の鉱物資源研究所が存在しています。

そして血原の場所から水銀が産出されていました。
水銀は王権のものであり、神殿を作った時に赤く塗ったりして使われました。
それは基本的に腐りにくくする防腐剤や魔よけの意味があったと思われます。
その辰砂と共に砂金も取れたという記録もあります。

今のように電気メッキが発達していなかった時代には、金属に対して金メッキを施す場合、金属の上に辰砂と金を混ぜて塗り、温めて金メッキにしていたのです。
辰砂はそれに必要不可欠なものでした。
そういう場所だったので、田畑の少ない山間の地域であったにもかかわらず、財力があったのです。
その財力があるところには富を護るために必ず武力が必要になります。
貯めた財力を守りやすくするため、平地ではなくて、龍口のような山間の奥地で人里離れたところに住まざるを得なかったと思われます。

辰砂を発掘している人たちのことを“穿ち(うがち)”と呼びました。
穿ちとは、今の日本語の“穿つ”の語源であり、探究するとか掘り当てたりするとかを意味します。

山を掘ることを穿ちと言い、その行為を穿つと言います。
現在でも使われている「穿った見方をする」とは「物事の本質を捉えた見方をする」という意味になるのです。

その“穿ち”が宇陀市の語源になったという説もありますが、その証明は他に任せるとして、“穿ち”や武力や資金を辿った人たちのことを、大昔は“八咫烏(やたがらす、やたのからす)”とも呼ばれていたのです。


(8)神武天皇と八咫烏

何故、彼らは「八咫烏」と呼ばれていたのでしょうか?
研究によると、彼らは水銀を採掘するということで、皮膚が黒色化していました。
とともに、水銀中毒症状を呈していて、皮膚が空気やモノに触れるだけで激痛が走るのです。
綿素材を細かく打った(非常に柔らかい素材=ガーゼ)のものをふわっと羽織り、お尻には獣のしっぽが付いたままの毛皮をあてていました。
その獣の長いしっぽが、後ろから見ると足の間から3本目の足のように見える、真っ黒いカラスのようだと言われ、“黒い3本足のカラスのような民族”と呼ばれるようになりました。



その民族の名前「八咫烏」が最初に出てくる記紀によると、神武天皇が九州から神武統制した時、一度敗退した神武軍がもう一度、捲土重来、和歌山熊野街道を通って、穿ちの里で最初から(天皇家よりはるか先に)住んでいた民族と合流することによって、彼らは力を増強することが出来た、とあります。



「八咫烏」の武力と資金力に感嘆し、その時に神武天皇と山間地の先住民族「八咫烏」の間で交わされたのが、「この辺り(宇陀)を未来に渡って安堵・保全する。」この地が天皇家にとって大事な地であることを肝に銘じるよう、天皇家の言い伝えとしたのです。

その天皇家(南朝方)の言い伝えには、もし天皇家に何かが起こったときは、神武天皇が都を興した橿原からまっすぐ東に向かって八里のところに住む八咫烏の子孫たちを訪ねるようにとされていました。
聖武天皇は、強大化する中国への対抗策として東大寺の大仏殿を建立しましたが、聖武天皇がもうひとつやらなければならなかったことに、飢饉に対する措置がありました。
昔の飢饉のほとんどは水不足によるものでしたから、雨乞いをするにはどこが適地か探し、神武天皇からの言い伝え通り、「曽爾村から龍口を経て室生」にいたるまでのその辺りを調べたところ、その地が天の水が降り、自然の良木が育ち、かつ、おいしい水が出て、潤っている聖域、聖地であることを知り、聖武天皇の勅命によって初めての雨乞いが龍口周辺で行われたのです。



そして、神武天皇の言い伝えに従い、雨乞いが行われたことを長く伝え残すために、その山を“神武山”と名付けました。
ほんの30年前までは、雨が降らない時にはこの神武山にて雨乞いをしていたというのが白山神社の藤田宮司によって今も語り継がれています。

神武天皇が東征し、八咫烏の民族と共闘して、長髄彦(ながすねひこ)との戦いに勝ち、神武天皇を支えた山の民族として認められた人たちやその地域は“山中(さんちゅ)”と呼ばれました。
対して大和盆地のことを“国中(くんなか)”と呼びました。その言い伝えは聖武天皇から後世の天皇家にも引き継がれていたからこそ、後醍醐天皇が吉野に入り、吉野朝(南朝)をつくられたのは、そういう理由があったからなのです。

後醍醐天皇が吉野に入って、一番東の奥の院として考えていたのが、この「龍口」であります。
神武天皇の言い伝えにより、後醍醐天皇から数えて四代目の子孫兄弟が龍口に入ってきました。 

彼らが龍口に入村した時に一緒に来たのが、“猪谷”や“三条”です。
その“三条”の屋敷が、龍口に現在住んでいらっしゃる南さんの田んぼであり、現在の法光寺の西隣にある築城跡なのです。
そこにある石垣は田んぼのために建てられたのではなくて、元々そこは(天皇家を護るための)三条家の屋敷が建っていたのです。
三条家は明治時代に平民となり、名前を変えて“木原氏”姓となりました。

木原氏はいまだに健在で、龍口及び、いろいろなところに分かれて住んでいます。

こうして龍口に、天皇家が入ってきましたが、天皇家のしきたりと村民たちとは生活の風習の違いがあり、天皇の末裔が長く住まわれると揉め事が起こりそうでした。
スープの冷めない距離と言いますが、忍者たちに護ってもらいながらも、別のところに住むことになり、龍口から西の谷に移り住んだことから、西谷という村が出来たのでした。


(9)龍口のルーツは、日本のルーツ

それと同時に、その天皇の末裔たちを守護するために入ってきたのが百地丹波でした。
百地丹波は天皇家の血筋を汲む公家系の忍者でした。
別途に、武家系の忍者として楠木一統が僧侶の形をして入ってきました。
(半僧半忍)。

それが、現在の槙雄家のルーツなのです。
ちなみに、槙雄家を辿っていくと、奈良県橿原市北越智にある浄宗寺(吉田家)にルーツを求めることが出来ます。

基本的には仏教と神道を習合した、いわゆる神仏習合の寺でしたが、後に、浄土真宗の真宗興正派に改宗します。



この浄宗寺は、元々、楠木家一統の菩提を弔うお寺でした。
法光寺は、その楠木正成の一統であることを示すために法光寺と槙雄家の寺紋と家紋は「菊水」であります。
東大寺なら当たり前のことですが、こんな山奥の寺にもかかわらず十六紋の菊を使用することも許されている珍しい寺院なのです。

そのルーツを絵で表すために、本堂の天井伽藍欄間には菊水の模様が描かれています。
川の流れに菊の花が二輪舞っている様は、通常では考えられない変わったデザインです。
法光寺のルーツは天皇の末裔を護るために入ってきた半僧半忍の僧侶であり、木原家のルーツは三条家に由来する後醍醐天皇の末裔が入ってきた時に一緒に入ってきた公家でした。

かつ、西谷村の名だたる名士たちのルーツは天皇の末裔を守護するために村に入ってきた武士たちでありました。
それが、未だ持って続いているのです。


この龍口の歴史をきちんと遡るとすれば、「古くは縄文時代」だし、歴史で出てくるところでいえば「神武天皇の八咫烏の協力(「神武東征(じんむとうせい)」)」まで遡ることが出来ます。
その八咫烏と龍口の村民との関係というのは、知力から産出された財力を護るために武力が発達し、山の一番奥まで引っ込まなければならなかった武力集団に由来しています。
その辺りのことをよくよく知る修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)や、空海、弘法大師は、日本のルーツはここにある、ということが良く解っていて、“行場”として赤目四十八滝を開き、かつ、聖武天皇の聖地であることを明かすために、空海は「女人高野室生寺」を建立したのです。

そういう秘められた歴史の中で脈々と息づき、改めてこの時代になって、天皇家と忍者の情報を発信出来るのが、この「大和龍口」なのです。

今、現存している忍者の資料は、下忍が書いているものが主で、基本的に現場の技術のことが書いてあります。

「一番肝心な天皇家の勅命などは全部上忍の頭の中にあった」のです。
それだけの影の武力を持っていて、ちゃんとしたリーダーがいたからこそ、天皇家の末裔を受け入れることが出来たのです。

未だにその天皇家の末裔は西谷に住んでいて、明治時代の南朝血族改めの時に、宮内庁が龍口の西谷まで来て、天皇家の末裔を確認したほどです。

幕末~明治維新あたりの天皇家の新たな事実(本当の姿)については、ここでは触れませんが、それについて書かれている書物が発行されているので興味のある方はご一読願いたいと思います。
そういう中で龍口の住人たちは生まれ、育ち、今の時代、その末裔が全国各地、世界に向かって生きています。

忘れていただきたくないのは、「日本のルーツと、この龍口という村のルーツは同期しているのだ」、ということなのです。


※本原稿は現在も編集中ですので、文章・表現の改訂、また、新しい事項が逐次的に追記されていきます。
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